音楽劇「ある馬の物語」を観てきました

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世田谷パブリックシアターで上演中(2023/06/21~2023/07/09)の

音楽劇「ある馬の物語」を観てきました。

音楽劇『ある馬の物語』 – 世田谷パブリックシアター

聡明な馬の目を通して見る、人間の愚かさ・身勝手さ。死ねば他と同じく土に還るしかない生き物なのに、すべてを我がものにできると信じる、その滑稽さを浮き彫りにした作品。

個人的には、「『所有』には責任が伴うのだ」という至極あたりまえのことを再認識したお芝居でした。いや良いのよ本当に!

あらすじ

ある厩舎で、市場で買われてきた老馬が若い馬どもに苦しめられていた。年かさの牝馬がそれをやめさせ、老馬をよく見ると、それは旧知の馬・ホルストメールだった。

年老い、ケガや病気が見てとれる状態のホルストメールから若い馬たちが聞いたのは、こんな話だった。

駿馬でありながら、まだら模様に生まれついた馬がいた。

その模様のせいで、人間たちからは価値が低いとみなされていたが、ある日、厩舎に馬を選びにきた軽騎兵将校・セルプホフスコイ公爵に見いだされ、買い取られる。

「ホルストメール」と名付けられたまだら馬は、公爵のもとで最も幸せな日々を送っていた。

ある日、公爵が愛人・マチエと出かけた競馬場で、ホルストメールは急に出走することになる。ホルストメールの俊足に人々は熱狂したが、その間にマチエは若く美しい男と姿を消してしまった。

動転した公爵はマチエを取り戻そうと、ホルストメールを激しく鞭打ち、長い距離を無理に走らせる。

無理がきっかけとなり、ホルストメールは以前のように走れなくなってしまう。

公爵の元から売り払われたホルストメールは、道具としてさまざまな人間たちに所有され、使われ、消費される。

そうして年老いて衰弱したホルストメールの前に、やはり年老いた公爵が現れる───

 

開幕前から「所有をテーマに~」って周知されていたので、大きなテーマはそこなんだろうな~
でもまぁ白井さん演出だし成河くん主演だし、単純単一な感じじゃないよねとは思ってました。

思ってはいましたけどね、想像以上にたくさんの問題が提示されていると感じまして、今ちょっと自分のキャパの小ささを実感しております。

おかあさんもう、抽象的な考えごとがキビしい年代になってきたわー
(なんでも歳のせいにするスタイル)

すごく単純に乱暴にいえば、馬の清らかさ、聡明さに比べて人間ってなんて惨めで欲深いんでしょうね!って感じ。

だけど馬と人間を完全に切り離してなくて、馬の姿で行われるあれこれがそのまま、人の世に通じていてヒヤリとします。


さてここからは、ネタバレを気にせず感じたことを書いていきますんで、これから観るって方はご注意くださいね~

足場が組まれたセットと、低く下げられたステージ。客席の最前列はステージと同じ高さでした。

工事現場の作業服を着た役者さんたちが客席通路にいるなぁと思っていると、足場の上に立ってた人がヘルメットを落とし、足場から落ちるところから芝居は始まります。

馬が人間社会において最大の動力であった時代とは、現代は違うようになんとなく思ってる私たち。

でも結局のところ、大きな建造物を作るときにはそこで働く人々がいて、かなりの工程を人力でこなしてる。

場合によってはそこでひどく消費され、使い捨てにされてたりする。

と、いうことを提示してるのかどうかはわかりませんが、観劇後にあったポストトークで演出の白井晃さんがおっしゃってた話から、そんなことを感じましたよん。

 

さっきまで工事現場の人々だった役者さんたちが馬として現れるのもすごいんですけどね、なんといってもホルストメールを演じる成河くんがもー

ブラヴォー!!

馬なんですよ本当にウマ。鼻息も嘶きも、足運びも完全に馬で、着ぐるみ着てるわけじゃないのに後ろ脚が見える。ケンタウロスみたいな感じでw

若かったころと、老馬になってからの声や姿勢、歩き方の違いも素晴らしい。痒がるところは本当に痒そう~

私の愛する小西遼生さんも、どんどんウマくなってます

遼生さんが演じるミールイは若い牡馬で、とても美しい。一頭だけ角砂糖をもらってたりして、人間にもちやほやされてる。

やるときはやる ってのは活躍するという意味ではありません ←

ミールイはホルストメールが恋をしていた牝馬のヴャゾプリハ(音月桂さん。キレイ!)を、横からつまみ食いする(言い方よ)
わけなんですが、これって元の小説にはないので、戯曲版で足された設定なんでしょうかね。

ミールイは別に、ヴャゾプリハが好きなわけじゃないんですよ。いや美しい娘馬なので交尾はやぶさかでない(だから言い方)んだろうけど、どっちかというとホルストメールをからかう方が目的なんだと思うの。

無邪気で残酷

ミールイは自分が特別に美しいこと、恋をしかけたら牝馬が自分に夢中になることを知ってるように思う。

実際、ヴャゾプリハは別にミールイのことを追い回してなんかいなかったのに、虜になっちゃっておおっぴらにイチャイチャし始めるんすよ(双眼鏡タイム((鼻息でレンズが曇ったのはヒミツ

それは「牝がOKするのが全て」である自然界の真理であって、本来ならホルストメールが怒る筋合いじゃない。

馬同士に貞節や約束なんて概念があるわけないし。

だけどホルストメールは怒っちゃう。そんでミールイを攻撃するのではなく、ヴャゾプリハに向かう。

自分に権利があるはずなのに、蔑ろにされた!っていう怒りがとても人間的。

馬の生態とはかけ離れてるよね。だからここは、馬の話のていで人間の行動を表してるんだろうなぁって思う。

いやオマエさっきめっちゃ怒ってたじゃん、あれよアレ って気持ちになったよね~

余談ですが、この「発情した牝が牡とつがって若く美しくなり、自分にまったく興味を示さなくなる」という流れ、小説ではホルストメールの母馬にも起きていてですね、

「トルストイ女性不信なの?なんかツライことあった?おばちゃん話聞こか?」

って気持ちになるw

 

ホルストメールは去勢されて、勇ましい嘶きや、はしゃぎまわることから離れてしまう。そのことが彼を思慮深い馬にしていく。

彼が最も疑問に思うのが、人間がもつ「所有」という概念。生きた馬である自分を、なぜ人間は「誰々の馬」と決めるのか。

ホルストメールの持ち主はたびたび変わり、そのたびに扱われ方や使われ方が変わっていく。

厩頭の馬だった時は、荷物を運ぶ動力として使われてて蹄の手入れもされていなかった。速く走れるのにそこを評価し活かしてもらえなかった。

別所哲也さん演じる、セルプホフスコイ公爵の元にいた時がいちばん幸せだったのは、公爵がホルストメールを「駿馬である」と見抜き、その才能を活かした使い方をされ、その能力を愛されたから。

まだらも「きれいな模様」と評し、立派な馬具を着けさせ脚を活かして走らせてくれた、その誇らしさが幸福だったんでしょう。

この、「能力を正しく評価されることの重要性」に、私はすごく執着してるなって、この芝居を観て気づいたのね。

それは私の中に、子どものころ感じていた「自分に責任のないことが原因で、正当に扱われない」ことへの悔しさが、こんな還暦近くなった今でも根深くあるってことなのよ。

上演されているお芝居に、そんな問題提起があるわけじゃないんだけど、勝手に受信して自分で驚いたりする。

こういうのが、物語を浴びる楽しさだと思ってます(笑)


作品の大テーマとして広報されていた「所有」について。

すべてのものは所有され、管理され、処分される。意識しないで暮らしてるけど、改めて考えてみると本当にそうだなぁと思う。

所有したいと求める欲と、実際に所有できる量の差についても考えちゃったな。

物質量だけでなくさ。たとえば身に余るお金を持つことになって、不幸になったりもするじゃん。

そのものの持つ価値を活かせないなら持ってても無駄にするだけだし。宝の持ち腐れって言葉も、足るを知るって言葉もあるよね。

逆に、公爵の元にいた頃のホルストメールのように、その価値を認められふさわしく使われることで、所有物としての幸せを感じるってこともある。

所有という概念が悪いわけじゃなく、処分も含めて責任が伴うってことと、自分の器をどう認識するかが大事だよねと思ったりしました。


終盤、年老いた公爵に、若いボブリンスキー伯爵(これも遼生さん)が次々と馬を見せてるんだけど、あれって馬を買ってもらおうとしてるわけじゃないのよね。

うちにはいい馬がたくさんいるんですよ~これなんか高かったんだから!っていう自慢。

自慢のために莫大な経費をかけて所有することへの皮肉も、ちょっと感じる場面でした。

なんにせよ自分が持っているもの、管理しているものに、正しい容量用法で当たれてるかなと考えたりも。

ただね、たとえば「私の夫」と言っても、夫が私の所有物だとは思わないので、ここは違和感のあるところ。

この場合の「私の」は、私たちにとって所有の意味ではないよね。いや、所有のつもりで言うひともいるのかもしれないが。

現代日本では「夫」は一人につき一人しか存在しない約束になってる。私にとって、その約束の相手がそのひとだって意味での「私の」だと思うのよ。

だからむしろ、劇中で使われる「じぶんの女」という表現には、なんの約束も存在しないと感じ取れるし、イイ男が現れたらそっちに乗り換えちゃうマチエには、私は不道徳を感じない。

もともと、マチエは公爵のことそんなに好きじゃなさそうだしw

牡は自分の魅力やチカラをアピールするだけ。選ぶのは牝。ヴャゾプリハもそうだった。

とても自然じゃないですか~


役者さんについて。

成河くんは素晴らしい、もうホント、あのひと出来ないこと無いんですかね?としか言えない。

馬なのよ。すごく純粋に馬。私のように、生きた馬を間近で見たことがない人間はもちろん、馬をよく知ってるお友だちも驚愕するほど「馬」。

ミュージカルでもたびたび歌声を聴いてますけど、今回しみじみ「いい声だなぁ」と感じましたよん。

伝えたいことが身体中に渦巻いてるようで、こっちは見落とすまいと必死になるのですごく疲れます(笑)

内容も軽くないしね。でも底抜けに楽しかったり、高揚したりもするのよ。

疾走するシーンはホルストメールの充実や喜び、誇らしさを感じて泣いちゃうし。

ひょっとしたら映像を観るチャンスがあるのかもしれないけど、劇場で体感できる機会があるようならぜひどうぞとおススメしたい。


音月桂ちゃん、舞台で観るのはいつぶりだっけと思ったら、フランケン再演ぶりでした。

うっそーーそんな観てなかったっけ?!ってビックリしちゃったw

相変わらず肌が美しい~マリー(ボブリンスキー伯爵の妻)のドレス姿がものすごく美しくて見惚れる!

おばちゃんヴャゾプリハの時はちょっと関西のおばちゃんっぽくて笑っちゃうw

若いころはホルストメールに酷いことされるけど、別に恨んでないのが馬的にフツーなんでしょうかね。

マチエの時はすごく打算的な女性に見える。欲望に忠実ともいえるかな。イヤな女かもしれないけど、私は嫌いじゃないですねw

個人的には、桂ちゃんにはいつか、すっごい悪女をやってほしいな~こっちが震え上がるようなやつをね!


別所哲也さんは若いころの自信家で、自己陶酔感の強い公爵がすごく好き。

年老いてからは、ああいう感じの人が身近に多いので見ていてちょっとツライです(笑)
そう感じてしまうほどリアルなんだよね~

歌声もあいかわらず素敵でした。あのシャンソンの色気はなかなか出せないよ!

若いころのセルプホフスコイ公爵って、退廃的というか「どうせいつかみんな死ぬし、今を楽しむべき」って思ってそうな感じなのよね。

でもさ、若いころそんな風に思ってても、人間って意外と死ななかったりする。

公爵だって、自分が貧しくなることより、貧しくなっても生き続けてることが予想外だったんじゃないかと思ったわ。


自分が母の介護をするようになって思うけど、老いって、それ自体は別に怖くないと思うのよね。

自分で自分の面倒をみれなくなっても、死ぬ日が来ないのが怖いのよ。

忘れっぽくなったり、すばやく動けなくなったとしても、死ぬ日が来るまで判断力もあり、自分が食べていくくらいの経済力が保証されてたら、実はあまり怖くないと思う。

私、若いころはね、老いとは衰弱だと思ってた。でも違うんですよ。老いって崩壊なの。人としてのいろんなことが、少しずつ崩れ壊れていく。

いっそ一気に壊れてしまえば、本人は楽だと思うけどさ。それが意地悪いことに、少しずつ、少しずつ進むのよね。その崩壊を感じつつ、明日も生きなきゃならないのが、怖いんじゃないかと思ってます。


さてさて、私の愛する小西遼生さんですが・・・

初日、ミールイが出てきた瞬間にファンにあるまじき爆笑をしちゃったわたくし(笑)

だってさ~、下手の奥の方から、ライトを後ろに浴びたシルエットで、デビュー当時の安全地帯みたいな縦長逆三角形がのっしのっし歩いてくるんだもんw

もう最初っから恍惚の表情。「おれって・・・良い馬だろう」的な。めっちゃスタイルいいし、キレイだし、セクシーだけど

笑っちゃうのよ!!キマりすぎてて可笑しいの!!

ホルストメールの純情というか、ヴャゾプリハを大切に思ってる気持ちを踏みにじるイヤな奴。なんだけど、当のヴャゾプリハが夢中になっちゃうから、観てるこっちはスンッてするしかない。

意地悪だけど性悪ではないというか。ロシアだし美形だしということで、グレートコメットのアナトールを思い起こす方もいたみたいだけど、性悪でないってところがかなり違うかなと思う。

馬だしw

遼生さんが歌う曲もすごく好き。ロシア民謡っぽくもありキャッチー。声の響きも良いので、周囲の牝馬ちゃんたちと一緒に私も客席で沸きます ←

ヴャゾプリハを物陰に連れ込むところでは嫌悪感と萌えがせめぎあう。たいてい萌えが勝つ ←←

ミールイは乗馬用の馬で、見栄えがするので人間たちが見栄を張りたいときに利用され、そのために大事にされた。きっと生涯しあわせだったんだろうな、と思う。

つまり、人間にとって都合の良い「見栄えの良さ」を持って生まれ、その美貌という能力を活かして使われたという点で、人間の厩舎で生まれた彼は幸運だったわけよね。

ホルストメールとは真逆で、つらくなる。でも自分の中にもあるじゃん?実際の性能より、見栄えの良さでものを選んじゃうこと。

人の視点でいえば、実用性よりも見栄えを重視するべき場合ってのも現実的にあるしさ~なんてことを、ミールイとホルストメールの対比を見て考えました。

競馬場でマチエを連れてっちゃう将校も遼生さんが演じてますが、これまたちょっと滑稽なくらいキメッキメ。脚が長すぎてむしろバランスがおかしい。お友だちが妖怪人間ベムとか言い出して、もうそうとしか見えないしw

マチエを見かけてからずっとロックオンしてるけど、直接的に口説いたりはしなくて、自分の魅力を存分にアピールしてるのが小憎らしい。すき(結局


公爵の馭者・フェオファン役の小柳友さんもイイですよ~気のいい若者役は、私は初めて観たかも。なんせ重々しい作品にたくさん出てるイメージがあって。

働き者で、馬が好きで、公爵にも正直な気持ちをサラッと言える若者で好印象でした。ホルストメールが公爵に鞭打たれ走らされるところでは、戸惑いと悲しみがないまぜになった表情でこちらも苦しい。

そしてとても長身なので、ホルストメールとシーソーの時はちょっと心配になるよ(笑)重量差?!ってね。

春海四方さんと小宮孝泰さんの厩頭と馬番もいいコンビ。四方さんの意地悪いカシラと、小宮さんのちょっと足りないワーシカのやりとりは笑っちゃう。

小宮さんイイ声してるのね。歌声もっと聴きたいと思いました。

ホルストメールのそもそもの持ち主、将軍は大森博史さん。コミカルな場面が多くて、出てくるとなんか和みました。


そういえば、ホルストメールがまだら模様だからってんで、将軍は「こんな馬いらん」つって厩頭にくれるのね。で、公爵が買い取る時には厩頭が値段を決めてお金を受け取る。

その値段は800リーブル、って言ってるんですよ。それで、今の金額に換算したらどのくらいなのかなーと思って調べてみたら、1800年代後半の1ルーブルは約1000円くらいだそう。

つまり、およそ80万円ってことになるのね。

そりゃあ大喜びするよね~!


ラストの仕掛け、一度観客を現実に戻してから提示されるあれは、遠い昔の外国の物語から、今現在生きる私たちの物語として受け取らせるためのものなのかなと感じています。

戸惑いと違和感、そこから生まれる「なぜ」という感覚。それが大事なのかなって思う。

世田谷パブリックシアターでの上演は今週末(2023/07/09)で終了。

その後、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで上演されます。

お話もキャストもいいし、音楽がこれまたカッッコいいのでぜひ浴びて~!

私も今週末また観に行く予定。苦しいところもあるけど、何度でも観て、考えたいと思う。経済のこと、生き物を所有するってこと、自分の欲についてもね。

あ、パンフレットも素敵だったのでぜひに!

アンサンブルさんたちの写真も、宣材写真みたいなのじゃなくて、メインキャラの方々と同じく馬のイメージで素敵でした。記事も読みごたえありましたよ~

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