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舞台「スリル・ミー」を観てきました

天王洲銀河劇場で2014年11月24日まで上演される、ミュージカル「スリル・ミー」を観てきました。

観てきましたというか、観ています、だわね。今まさに、毎日のように埼玉から天王洲に通ってますわ(笑)

スリル・ミーの公演が発表になり、私の愛する小西遼生さんが出演されると聞いた時点で

「11月は家出する」

と家族に宣言していたわたくし。

夫は「まぁいいよ」と包容力あふれる大人の男を気取ってましたが、実際11月が来て劇場日参の日々がきたら、

「ごめん、やっぱり こういうのは今回限りにしてもらえると嬉しい」

と泣きが入りました(笑)そうよね~、大変よね。ありがとう。

でも決して「もうしない」とは約束しない私を許して(黒笑)

さてさてスリル・ミーですが、ピアノ1台と俳優2人で上演されるミュージカル。1920年代に、実際に起きた事件を元にして作られたそうです。

登場人物は「彼」と「私」、そしてピアノ奏者だけ。観終わった後に、

「ほんとうにたったそれだけで、あの空間を作ってたの?」

と考えてしまうほど、濃密でした。出演者はさぞかし疲れるだろうし、観ている方も正直疲れます。でもなんか知らんが中毒性が高くて、何度でも観たくなるのよ。初演から観てらっしゃる先輩方にそう言われてたけど、本当にその通りでビックリ。

そして観終わった後も、ずーっと内容について考えてしまう。曲がずっと頭から離れない。そんな舞台です。

 

毎公演、何組かのペアで上演されているようですが、今年は「柿澤勇人さん・尾上松也さん」「伊礼彼方さん・田代万里生さん」「小西遼生さん・松下洸平さん」の3ペアでの上演。

柿澤さん・伊礼さん・遼生さんが「彼」、尾上さん・田代さん・洸平くんが「私」です。

私が一番多く観るのは遼生さん洸平くんのペアだけど、他の2ペアも複数回 観ました。

役者によって全然印象が違って見える、というのはよくある話だけど、ここまで違って見える舞台も珍しいんじゃないですかね。

感想としては、「全部のペアを観ておいて良かった」という一言につきます。次に再演があったら、また全ペア観るんだろうな私。ってまだ、今回の公演終わってないんですけども。

 

さてここからはネタバレします。

結末まで書きます。なのでこれから舞台を観る方は、読まないことをおすすめしますよ~。

 

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舞台の中央にはポツンと金属製の階段。客席にせり出すように設置された正方形の舞台の両端には、ベンチと電話、机らしきものとタイプライター。片側にはダウンライト、片側にはテーブルランプが置かれていました。

ツヤのない黒い舞台セットの上段には、同じくツヤのないグランドピアノが。ピアニストさんが登場し、照明が落ちると共に悲劇的なピアノの旋律で幕が開きます。

客席の前方扉が開き、囚人服を着た「私」が重い脚取りでステージに向かう。34年前、「彼」と一緒に19歳の時に犯した罪で服役している「私」。

刑務所の審理室で、仮釈放請求の審理委員会が始まる。5度目の正直か、また同じ話を・・・とうんざりしている様子の「私」だが、審理官は隠された真実を話せと求める。

やがて「私」は語りだす。

 

「私」と「彼」は幼馴染みだった。裕福な家庭に育ち、容姿端麗、頭脳明晰だった彼らは飛び級して人より早く一緒の大学へ進む。しかし「彼」は突然「私」の前から姿を消した。

卒業後、会う約束をした場所に「彼」はなかなか現れない。趣味のバードウォッチングをしながら待つ「私」を、脅かすように背後からいきなり現れる「彼」。

「私」は狂おしいほど「彼」を愛していたが、「彼」は「私」をあくまでも冷たく扱う。

待ち合わせに遅れておきながら「これからニーチェの勉強会だ」と立ち去ろうとする「彼」に、「私」は「君を本当に理解できるのは自分だけだし、本当に求めているのも自分だけだ」と訴える。

冷笑しながらも「私」に付き合うことにした、という「彼」だが、その夜は空き倉庫を燃やすことになる。ニーチェの超人思想に傾倒していた「彼」は、自分こそが超人であると語り、犯罪行為で得られるスリルでしか、自分を満足させることが出来なくなっていた。

「彼」が求めるスリルを提供するため、犯罪に手を貸し続ける「私」。隷属的な関係に不安を感じる「私」を引き留めるためなのか、「彼」はお互いの血でサインした契約書を作ることを提案する。

契約によって、お互いの要求に応えなくてはならない結びつきが出来た二人は、放火や窃盗を繰り返す。

 

やがてその行為にも興奮しなくなった「彼」は、殺人こそが最高のスリルだ、完全犯罪としてやり遂げてみせると言い出す。

殺す相手はそりの合わない弟だという「彼」を、真っ先に疑われると必死に止める「私」。ならば別の誰か、知らない子どもを殺そうと思いつき、興奮する「彼」を「私」は止められない。

そして計画は実行に移される。子どもをスポーツカーで誘惑し、連れ去って殺し、排水溝へ死体を隠す。もう殺してしまった子どもの家に脅迫状を送り付け、身代金も手に入れようとする「彼」。

計画のまま、「彼」の指示のままに加担する「私」だが、死体を隠した場所近くでメガネを落としてしまう。

落としたメガネは特別な高級品で、数があまりないものだった。すぐに持ち主として割り出され、「私」は取り調べを受けることになる。質問されるであろう内容や、返すべき答えをレクチャーする「彼」だが、逮捕の手が伸びたことで「私」を切り捨てようとする。

メガネを落とした失態を責め、逮捕されても自分のことは話すな、巻き込むなという「彼」に、「私」は自首すると告げる。しかし「彼」は「それはいい。もう二度と会わなくてすむ」と言い放つ。

自首した「私」のところへ、同じく容疑者として連れてこられた「彼」は裏切りだと「私」を責める。

「彼」は「私」が現場で落としたメガネしか、物証はないと思っていた。しかし「私」は証拠をすべて残していた。凶器に残った指紋も、特徴のあるタイプライターで打った脅迫状のことも警察に話した、と聞き、青ざめる「彼」。

「私」が自分を切り捨てようとしていると感じ、「彼」は懐柔しようと優しくする。「私」はその要求をのみ、警察との取引を止めることにする。「私」の父親が大金を払って雇った有名弁護士の働きで死刑は免れ、ともに終身刑に処されるふたり。

 

手錠につながれ、運ばれる車の中で、「私」はこれで「彼」とずっと一緒にいられると話す。二人組の殺人犯が一緒にいられるわけない、と言う「彼」に、「私」は看守なんて金でどうにでもなる、自分こそが超人だと分かっただろう?と話す。

意味が分からず混乱する「彼」に、「私」はすべて「彼」を手に入れるためだったと告げる。メガネは過失でなく、わざと落としたのだった。彼と一緒にいるために。ずっと一緒にいるために。

「彼」が懐柔しようとすることも承知の上だった、一緒に絞首刑ならそれでも良かったと語る「私」。

破滅する道を選んでまで、「彼」と共にいることを望んだが、「彼」は収監後、刑務所内で殺されてしまっていた。それから何年も、「私」はひとりきりで刑務所にいたのだった。

メガネをわざと落としたことは、これまでの審理委員会でも話していなかった。審理の結果、「私」は仮釈放されることになる。釈放の朝、返された所持品の中には、高校生時代の「彼」の写真があった。

ラストシーン、舞台の上階部分にポートレートのように浮かび上がる「彼」の姿に、「待ってたよ」とささやく「私」。その刹那、彼の呼びかける声が聞こえるけど、振り向く前にその姿は消えてしまった────。

 

この芝居、苦しい。とにかくずっと苦しいの。曲も頭に残り、ずーっとループしてエライことになります。もう廃人です。二人の心理状況が表されたピアノの旋律が、ずーっと頭の中で回ります。

そして台詞や表情のひとつひとつについて、思い出しては考え込んでしまう。あれはどういう事なんだろう、どういう意味だったんだろう?

芝居の解釈なんて人それぞれでいいんだけど、自分の解釈について人に聞いて欲しくなる。

芝居に限らず、私は自分の解釈について人に意見を聞きたくなることはまずないの。だからこういう事は、本当に珍しい。

どうしてこんなことになるのか、まったくもって分かりません。誰か教えてください(笑)

 

とてもじゃないけど考えがまとまらないので、散漫な感想になりますがお許しくださいませ。

物語を観ていて感じるのは、「彼」の側に「私」に対しての嫉妬があるってこと。同じように裕福な家庭で育ち、知能も互角。「彼」は社交的で女性にもモテて遊んでるけど、家族には疎まれているらしく、父親は弟ばかりをかわいがっている様子。

一方の「私」は、趣味はバードウォッチングと地味だし、友達もいない。でも「自慢の息子」で家族の愛は獲得してる。本当に恵まれ、世俗を超越しているのは「私」のほう。

そして、その「私」は何よりも「彼」の愛だけを求め、冷たくしても、どんなにひどい仕打ちをしても追ってくる。

これウザいと思うよ~、やられたら。自分の劣性を自覚させられる相手が、自分だけを求めてくる。自分と相手の違いを冷静に判断できるほど、腹立たしいと思うね。

「彼」は自分の中の嗜虐性を刺激する「私」が憎かったんじゃないかしら。追いすがってくるから酷い仕打ちで振り払うのに、「私」はあくまでも離れない。「私」を破滅させるために悪事がエスカレートしていったんじゃないかとさえ思える。

その関係はまるで、映画「アマデウス」みたい。モーツァルトの才能に嫉妬し、モーツァルトの才能の凄まじさを判別できる能力を与えながら、匹敵する才能は与えてくれなかった、と神を憎むサリエリを思い出してしまいました。

 

また、あれだけ酷いヤツなのに、なんで「私」は「彼」をそこまで好きなのか。

「私」に対する「彼」の態度のひどさったらないんだけど、色んな人にあんな態度だったら人気者にはなれないはず。だから「彼」の狂気や狭量さがむき出しになるのは「私」の前でだけなのよね、きっと。

だから「彼」の本質は、おそらくサディストではない。なのにサディスティックになるのはたぶん、「私」のせい。「私」が「彼」の中の残忍性を引き出し、増幅させてるように感じるの。

物語の序盤では賢く強い姿を保ってる「彼」だけど、話が進むにつれどんどん情けなくなっていく。「私」を切り捨てようとし、反対に捨てられそうになるとキスして懐柔しようとたくらみ、独房では死にたくないと怯えて泣く。

真骨頂は、自分たちを死刑から救った有名弁護士を引き合いに出し「俺がなりたいのは彼のような弁護士だ」と言うところ。そんな白々しいことを、得意げに言う「彼」の情けなさったらありません。

子どもの無責任な夢の話を聞く母親のように、「そうだったの」と返す「私」の姿に、そんな彼だからこそ愛しくて欲しくてたまらなかったのね、と感じます。

でも結局、「彼」は「私」のものにはならなかった。破滅し、させてまで手に入れたと思ったけど、裏切りでも決別でもなく、「死」によって「彼」は「私」から連れ去られる。それが本当の意味での、「私」が犯した罪への罰だったんでしょうか。

 

ラスト、呼びかけるけど消えてしまう「彼」の姿は、「私」の中にしか「彼」がいない、という暗喩なのかと思いました。現実に存在したし、一緒に罪を犯して一緒に刑務所に入ったんだけど、「私」が愛した「彼」像は、あくまでも「私」の中にしかない。

収監された時には、「私」は所持品に写真があることなんてきっと、意識になかったんだろうね。これからずっと、刑務所で「彼」といられるか、一緒に死ねると思ってたから。

30年以上も経って忘れていたけど、返された持ち物の中にあった「彼」の姿を観て「私」は何を感じたのかしら。一瞬 彼との日々が蘇るけど、結局「彼」の側に、自分に対する愛があったのかも、分からないまま。

審理委員の質問に、「彼の・・・友情が必要でしたから」と答えるところにも、「彼」の側に「私」への愛があったのかは、分からないという「私」の悲しさが出てたと思います。

共に生きることも、死ぬこともかなわず、自由の名のもとに放り出された「私」はどこに向かうんでしょうか。

↑↑↑↑↑ ここまで ↑↑↑↑↑

 

ネタバレを避けると、読むとこないくらい書いてます(汗)

お話についてはこのへんで。まだまだ語り足りないけど、えらい量になってしまう。って十分エライ量だっつの。ホントすみませんね、毎度お話が長くって。

3ペアそれぞれの「彼」について、特に遼生さんの「彼」についても語りたいし、登場人物のふたりが同性愛関係にあったという点から 考え始めた性的マイノリティとその愛憎の深さについても語りたいけど、なんせ長いのでいったん終わりにしたいと思います。

良かったら次回も読んでください(笑)

スリル・ミーは2014年11月24日まで天王洲銀河劇場で、同年11月29日は大阪サンケイホールブリーゼで公演です。今年初めてみた私が言うのもなんですが、マジでハマリます。

  カテゴリー:観劇・映画  



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